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FAMILY KONZERN


志望校合格だけが目標でしょうか
マサイに負けてはいられません

 アフリカのサバンナに住む遊牧民族、マサイ族をご存じでしょうか。マサイの成人男子は勇猛な戦士として他の部族から賞賛を浴び、かつ恐れられています。が、マサイの男子が成長すればそのまま戦士になれるわけではないのです。若い男子が戦士になる、つまり成人したと認められるためには、たったひとりでライオンと戦い、殺してこなければなりません。この過酷な試練にパスすると、初めて一人前として認められ、戦士の仲間入りとなるのです。今、日本は裕福です。さほどの苦労もなく、ただ毎日のんびりしていても、若いうちは暮らしていくことだけはできます。進学についてもそうです。行く先を選ばなければ、受験勉強などしなくても、どこかの高校には入れます。どこか大学にだって進学できるのです。社会に出てからもそうです。定職を持たず、フリーターなどと称してその日暮らしの生活をしている若者たちがいます。事の是非は置くとして、そういう人生だって可能なのです。過酷な自然と真正面から向かい合って生きているマサイ族の場合とはひどく違って、泰平の社会に甘えて暮らしていけるのです。

 しかし、人間は家畜ではありません。ただエサを食べて身体が大きくなっただけでは一人前の大人ではないのです。そこで、子供から大人へと心身ともに成長していく時、何か試練が必要なのではないでしょうか。目標を立てそれに挑戦する。懸命に努力する。辛い事に耐える。目標の達成感に感動する。このような経験の中で、人は成長し一人前になっていくのではないでしょうか。自分を精神的にも肉体的にも磨き上げる場が必要なのです。私たちは、受験がその絶好の機会になり得ると考えます。自分の進路にふさわしい学校を選択し、そこへ進学する意志をもって身構えた時、入学試験に合格する事は大きな試練となるのです。

■人間七、学力三の受験■
 受験に成功する、第一志望校に合格する、そのためには学力があるだけでは不十分です。いや、学力を向上させるためにも、学力以前の問題がクリアされなければならないのです。それを人間力とでも言うならば、その人間力が七、学力が三の比率で結果が決まるといって良いでしょう。

 基本的な生活習慣がきちんと自己管理できていない子。飽きやすく持続力のない子。無気力な子。このような性向の子は、その欠陥を矯正しなければ何をやっても大成しません。勉強の面でもそうです。しかし、それのみを純粋に改善しようとしてもそれは困難です。目標を掲げてそれに挑戦させる過程で自覚を促し、その達成とともに離脱するしかないのです。

 私たちは、子供たちが立ち向かわなければならない受験競争や、その先の社会についてありのままの姿を彼らに伝えます。そしてその意味と、意欲と向上心の重要性を語ります。自分に可能な限り高く目標を掲げさせ、目標に達するまで努力を続ける姿勢を強調します。励まし、叱咤しながら、己を磨くことの重要さを伝えようとするのです。

 子供たちは己の意志の弱さと戦い、同じ環境で競争するライバルたちと、互いに励まし合いながら伸びていこうとします。安易に夢をあきらめないたくましさと、夢の実現に向かって必死に努力する気構えを身につけます。時に悩み、時に悔し涙を流しながらも、それを乗り越えるたびに少しずつ強くなり、成長していくのです。暁星学園は精神主義である、とよく言われますが、その通りです。小手先の技を身につけることよりも、精神的に大きくなることの方が大切なのです。また、それなしには学力の向上もありませんし、目指す高校の門にたどり着くことすらおぼつきません。

 そして合格発表の当日、彼らが流す歓びの涙は何物にも代えがたい宝となって胸のうちに残ります。合格証を手にした歓喜の中で、自分が成し遂げたことを実感し、それまで続けてきた努力の尊さに気付くのです。そしてその時、彼らの顔から子供っぽい甘さが消え、人間的に一回りも二回りも大きく成長を遂げます。
子供たちが受験に成功したか否かは、単に志望校に合格したかどうかだけのことではありません。受験という厳しい試練に果敢に立ち向かい、その苦しさとそれを乗り越えた歓びを経験することによって、いかに成長できたかが重要なのです。

暁星学園の卒業生の多くは、合格発表の後、進学後も塾に卒業塾生として出入りしております。塾生にいろんな経験、自分の行っている高校の状況、社会人の厳しさ等を実体験経験として話してくれます。時には、親に話せない悩みの相談も・・・・。出入りしてくれる卒塾生は私たちにとって最高の財産です。私たちが本当に誇りたいのは、合格者の数ではなく、雄々しく成長を遂げて卒業して行った無数の生徒たちの、このようなドラマなのです。


■自己表現■
 吉田松陰が松下村塾で不満をもらしたことがある。それは塾生たちが会読(ゼミ学習)において発言しないことに対してである。この不満は師弟関係につきものかもしれないが、一人ひとりが輝くようになるためには大きな障害となる。善し悪しは別にして、アメリカ人が自己主張できるのも、この自己表現を小さいときから身につけ鍛えてきたからだと思う。

 いま、日本の教育界は大きな転機を迎えている。手取り足取り式のサービス過剰教育を見直さないと子どもたちの能力は低下するばかり。ちなみに、旺文社で、中間期末対策用学習書の全教材に対する割合は、1984年の0.7%が、1999年には28.3%にふくれ上がって、このタイプの教材は75%に及んでいる。学校の先生もがんばっているものの、依然として日本の<学校>という制度の中では担いきれないものが多すぎる。子どもの、まさに自己表現に基づく<生きる力>を身につけさせる学びを担えるのはどこなのでしょうか?

■「基礎学力」・・・■
 僕らが、「学校依存症」から抜け出せないキーワードの一つに「基礎学力」があります。ひいては、家庭教育を植民地にする教育行政・帝国主義の地雷となっているのです。
 特に、小学校は「基礎学力」をつけるために欠かせない教育機関だと言われていますよね。具体的に小学校で学習する算数について考えてみますね。
 たとえば、長方形の面積。これ、小学校で習います。「たて×よこ」って。いろんな図形の面積を求める「基礎」になっていますよね。だけどです。だけど、私は、実生活で長方形の面積を求めたことがありません。40年近い人生で、ただの1度もない・・。(教育関係者の仕事では常に使いますがごく限られた者だけだとおもいます。)長方形だけでは、ありません。「基礎学力」は「三角形、平行四辺形、台形」の面積まで求めます。さらに、「円すいの表面積を求める、体積を求める」などという、私にとっては、非常に高度な計算をも小学校で習熟しろと(旧)文部省はいうのです。
 だからこそ、小学生の段階で「ついていけない子」がでてきます。あたりまえのことです。これが、「基礎学力」の正体です。実生活のための「基礎」ではない。
 野球の応援の時に使うメガホンを見て、表面積が気になる人は、ほとんどいないでしょう。上の学校に進学するための、つまり受験のための「基礎学力」なのです。試験者側や行政から見れば「いいガッコにいけないぞ。」という脅しにも使える「基礎学力」です。
 だから、「どうして、私たちは小学校で円すいの表面積の求め方を学ばなきゃいけないの?」という子どもの問いに、「受験のためだから」以外の答えはないのではないですか。
 私はこう考えました。生きていく上で、経験上、必要だったと考える学力は何なのか。
それは、(旧)文部省に考えてもらうようなものではないはずだ。「基礎学力」を私なりに定義する。 そして、次の4つが、私たちの「基礎学力」でした。
  

  1. 国語辞典・漢和辞典がひける力
  2. たす、ひく、かける、わる計算ができる力
  3. 温度計、はかり、ものさしを使える力
  4. 自然の力、生命の尊さ、友人
  
 この4つを、私たちは親として、子どもが身につけられるよう手伝おう。それは、学校に行く行かないは関係なく、家庭教育として行おう。あくまで、一つの目安・節目として12才までに。12年間に4つ。そう考えれば、実に、ゆったりとした「学び」になりそうです。私たちは「基礎学力」という地雷を踏みました。何のことはない、それは、恐れる必要のない不発弾だった気がします。

ひとりと、ひとりぼっち(2002年5月号の暁星かわら版より抜粋)

 4月の始めに、ボランティアで小学5年生のご父兄から相談がありました。学年はじめのアンケートの問い「友だちを教えて下さい。」 に「僕の友だちは本です。」と答えたそうです。お母さんは、担任の先生から聞いてびっくりしたようで、先生に様子を聞くとなるほど、休み時間の彼はいつもひとりぼっち。 友だちのいない学校生活を過ごしている様子でした。心配するお母さんと担任の先生。先生は、Aくんや他の児童にいろいろな働きかけをし、そして純くんは次第に級友との関わりを持つようになり、5月からは、明るい笑顔を見せるようになってきたそうです。担任の先生の実践にすばらしさを感じながら、同時に釈然としないものを感じた私。
 その釈然としないものの正体を考えました。 それは一言で言えば「友だちがいないことは不幸せなのか。」 という疑問でした。友だちがいないことが不幸だと思えばこそ、親も教員も心配をします。「本が友だちだ。」と言い休み時間に一人で本を読むAくん。このAくんは不幸なのでしょうか。 どうして、私たちはAくんの「ひとり」を「ひとりぼっち」と 感じるのでしょうか。
 私たちは、子どもの頃から「友だちの大切さ」を教えられてきました。 先生から言われ、親から言われてきました。学校は勉強だけのところではない、友だちを作る場でもある・・。そんな言葉が当たり前のように語られてきました。 そういう環境で育った僕らが大人になり、子ども達に同じように 繰り返し伝えていく。 そして、大人も子どもも、不安になり、心配し、あせる・・。「友だちがいない。」ということに、大きな負のイメージをかぶせる。ここに大きな間違いがありはしないでしょうか?
 ひとりで本を黙々と読むAくん。そのAくんの行動は心配を必要とするものなのでしょうか。 むしろ、自分の好きな物(本)を5年生にして見つけている行為 に目を向けるべきなのではないでしょうか。 自分の友だちは本だと言える素晴らしさ。 この素晴らしさにこそ注目すべきではなかったでしょうか。集団と接する中から自分という個を作っていく。 これも一つの方法に違いないでしょう。
 しかし、個を確立してから集団と接していく。これも有意義なことだと私は思います。いえ・・・。むしろ、それこそが、より充実した他者との関係を結べるのではないか、そう思いもするのです。自分という個がおぼろげながらも確立してくる時期。 もちろん、個人個人によって、その年齢は違うはずです。 あくまで、私の例で言えば、17,8才だった気がします。子どもが学校という場を選ばなかった場合、多くの人はこう言います。「学校に行かなくて大丈夫?友だちはどうするの?」 学校に行く行かないに、関わりなく、友だちがいないことはちっとも怖くありません。友だちがいないことを怖がることこそ、怖いのです。「ひとり」は、けっして「ひとりぼっち」ではないのです。
 言葉の解釈ひとつで大きく物事が変わります。お子さまと接するときほとんどの大人は、昔はこうじゃなかった!と自分の若い頃と比べます。ここから大きな間違いが、生じているのではないのでしょうか?
時代、歴史は生ものです。私たち大人こそ考えなければならない時だと思います。

佐賀暁星学園
神田 洋典

保護者の方から一番質問の多い、「勉強の仕方がわからない」について考えて見ましょう。
 よくお母さんから聞く言葉・・・・本人は勉強のしかたがわからないと言ってます。どういうふうにしたらいいんでしょうか?・・・・と。

 お母さんの子供を思う気持ちは痛いほどわかる。わかるけどこの質問、まるで雲を掴むようなもので、質問されたら「ああそうですか、ではお教えしましょう」と即答できる種のものではなくあまりにも漠然とした質問で、正直答えようがありません。

 漠然とした質問には漠然と答えることが精神衛生上好ましいのですが「学校でしっかり授業を聞いて塾でも遊ばず最低限の事はする」と返答しても、恐らく満足してもらえないとおもいます。

 それにしても、なんと抽象的な言葉か!・・・ そして、実態のない言葉だろう・・・ 正直いまだ、これをどう受け止めていいのか、非常に戸惑いを受ける時があります。何故なら、この言葉を聞くのはその殆どが成績が下がったとき、又は上がらないときです。 
 例えば、具体的に数学の図形がいまいち解けないとか、社会の地理のグラフや統計の問題がさっぱり出来ないとか、英語の文法で不定詞の区別がわからないとか、具体的に言ってくれれば、その場で一応アドバイスは真剣に出来る。しかしそのことをお母さんに言ったとしても、生徒にそのまま上手く伝わるかどうかは、また別問題になります。

 先日、こんなことがありました。塾で宿題の確認テストをして、その結果をみて唖然としました。全く同じ問題を出すと言ったにもかかわらず100点を取った生徒は数人勘違いもあるでようから90点以上を合格させましたがそれでも約半数の生徒が60点以下!

 もう言葉になりません。アドバイス? そんなことが出来るのは少なくとも70点以上の生徒に対してだけでしょう。もう怒る元気もありませんでした。わたしは生徒に指示しました。
「来週の時間までに、自分がとった点数を反省して、理科の勉強のしかた、復習のしかたを具体的に考えてくるように」と。
 
 さて一週間が経ち、生徒一人一人に理科の勉強のしかた・復習のしかたを訊きました。集約して書きますと、次の如くです。

「やり直して、どうしてもわかんないところを、先生や友達に聞きます。」
「まじめに勉強する。」
「わからないとこや間違ったとこを、ノートや紙に書いて覚え直したい」

 これが生徒の一般的な答えです。保護者の皆様はどうお感じになりますか? この学年は特に優秀な生徒はいませんが、今の中学生の全国的にみてもごく平均的な答え、考え方だと推量します。きれいな、模範的な答えです。言い換えれば、表面的な、抽象的な答えです。自分のことなのに、何故か他人がするような、遠い世界の勉強を頭に描いてるような、実態のない答えです。
 これは悲しくも、「勉強のしかたがわからない、どういうふうにしたらいいんでしょうか?」という次元と、見事に符牒が合っているのではと思います。
 わたしが言ったのは、自分がとった点数を反省して、理科の勉強のしかた、復習のしかたを具体的に考えてくるように、と指示したのです。この生徒の言のどこに、<具体的に>考えたところがあるでしょうか?!
 抽象的なことはほぼ95%実行できず、具体的に考えた中でそれも自分にふさわしいやり方しか実行できないものです。即ち、上の生徒の答えは画餅に帰すのが目に見えている。
 なぜ、あなたはそう断言できるのですか? 生徒の考え、意志といったものをもう少し尊重するというか、信用してもいいのではないか? 自立性を助ける、また指導する方向を指し示せばいいのではないか? といった意見が、聞こえてきそうです。なるほど正論です。わたしはこれを否定するものではありません。

 しかしそれは、たかだか10%のよく出来る生徒に当て嵌まる正論にしか過ぎない。逆に生徒の現実を見ないその正論のおかげで、60点しか取れない生徒が半数近くもいるのではないでしょうか? よくあります、対策って言葉が。夏休みには苦手な科目を克服するいいチャンスで、一冊の問題集を計画的に繰り返しやると効果がある、って表現が。確かにその通りなんです。

 わたしも、「新研究という理科のテキストがいいから、塾の受験生にさせていました。最低2回繰り返してやりなさい。わからない処は解答をよくみて理解し、覚えなさい、それでわからなければ、聞きに来なさい。」と、言っています。
 しかし結果をみると約半数が結果を出せない!
 恐らくその勉強の内容は、アドバイスを受け入れて実行したものが半数、その半数は途中で投げ出し、残りの半数は最後までしたとしても、表面的にしたものが半数。解答合わせをして出来ない箇所の追求が出来ていない者がまた半数。一応曲がりなりにもやり終えた者の中で、更に忘れているところがあるからもう一度復習した生徒は? この論でいくと、確率的に40%になるんです。これでは机上の計算としても、10人にアドバイスをしたとしても、4人位しか実力をつける復習にならないではありませんか。

 生徒の言に話を戻しますが、復習のしかたでその具体性のなさの他に、もう一つ気になるところがあります。それは、「わからないところは・・・」という文句です。別に生徒の言葉の足りないところを論うわけではないのですが、冷静に考えて、わからないところ、という文句は例えば78点しか取れず、22点もわからなかった、という時に使うんではないか。

 ひねった応用問題や難問が出題されているわけでもなく、1年、2年で習った基礎問題からなる実力テストで、30点、40点しか取れない生徒が、「わかんないところ」は教科書、プリント、問題集で調べたり、友達、先生に訊いたり、という発想自体が、何ら自らの学力を反省していないし、問題そのものを振り返っていない証拠だと思います。つまり、まったく考えていないのです。考えていないから、きれいな当り障りのない言葉になるのではないでしょうか?

 ちょっと真剣にテストの問題を検討すれば、そして自分が出来なかったところを見つめれば、次のようになるんではないかな。
 自分の取った点数が30点とすると、残りの70点のうち少なくとも40点は忘れてしまったものであり、あとの30点がわからない問題だということに。

 ですからまず、忘れてしまったところから復習していけばいいのです。ややこしい計算(数学は殆ど比例でしょう、グラフや文章の数値から比例式を作って解けばいいと思うのですが)や十分理解していないと解けない問題、単元は後回しにして、覚え直せばすむところからまず第一段階として、学習を積んでいけばいい。忘れた40点に目を向けることから、復習は始まると思いますが、どうでしょうか。
 それに使う材料は、何も新しい問題集やソフト、ましてや友達、先生を必要とするものではありませんね。自らの頭と使用した教科書、プリント類、問題集で十分だと思う。それが出来れば次にどうするか?まず、やり遂げて下さい。30点+40点−10点=60点を取ってから考えればよい。もし取れれば、次の段階の具体的なアドバイスに移れると思います。−10点て何?それは復習してもまた忘れるでしょう、その点ですね)







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